海域アジア・オセアニア研究
Maritime Asian and Pacific Studies
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【レポート】「明治初期における島原半島沿岸の石干見・すくいの分布とその背景」(中尾勘悟)

【レポート】「明治初期における島原半島沿岸の石干見・すくいの分布とその背景」(中尾勘悟)

2023.3.29

日本語研究活動


明治初期における島原半島沿岸の石干見・すくいの分布とその背景

中尾勘悟 (肥前環境民俗(干潟文化)写真研究所)

キーワード:島原、スクイ、石干見、明治初期、伝統漁法

 

要旨

 島原半島沿岸には、明治十年前後に長崎県勧業課水産係の調査によれば、200ヶ所前後の「すくい」が築かれていて、その規模に応じてまた水揚げに応じて納税をしていた。スクイとは、石干見とも呼ばれ、大昔から行われていた漁法である。海岸にそった半円形、もしくは浅瀬に円形に、石を高さ2~3メートルに積み上げて、プールのようなものを作る。満潮の時、そのプールに魚たちが入り、干潮の時は、魚たちがそのプールに閉じ込められたようになる。そうして閉じ込められた魚を人間が獲るのである。
 納税のため漁または漁場の使用を申請する場合、漁場やスクイ漁場の図面を添付して申請書を提出し、地元の村や町、郡と県の許可をもらっていた。その書類には、和紙に沿岸と漁場(スクイの場合は周辺の環境とその規模と石積みなど)が彩色して描かれた絵図が添付されていた。中には芸術的ともいえる見事な絵図もあった。実は十数年前、筆者が郷土史家と県立図書館の資料室を訪ねた際、テーブルの上にB4版ほどの和紙に見事な筆さばきで彩色された沿岸の様子とスクイの石積みを描いてある絵図を見たことがあった。そのとき郷土史家から「中尾君、スクイの絵図を調査して記録してみないか。写真集ができるよ」と言われたことがあり、ずっと気になっていた。
 今度のプロジェクトでは、先ず現地の状況(スクイ漁場の痕跡の存在)を、十月に島原を訪ねた際知り合った「みんなですくいを造ろう会」の楠会長と内田事務局長に協力をお願いして調査して、当時の状況を和紙に描かれたすくい漁場の見取り図を参考に明治初期の地図で現場を確認、併せて郷土史家や地元の古老などから聞き取り調査をしたい。

 

(撮影:中尾勘悟)

 

背景と目的

 江戸時代初期、島原半島南部では天草と島原半島の村人の多くが(37000人と言われている)、江戸幕府のキリシタン弾圧と領主の圧政に耐えかね蜂起し、その一部が原城(雲仙市南有馬町)に立て篭もった。しかし、四か月でその一揆は制圧され、立て篭もっていた数百人は殺害され、それ以外の一揆に加担した者たちもことごとく処刑されて、島場半島の南目(島原以南の地域)ではほとんど村人はいなくなった。その後天草をはじめ他地区から遠くは瀬戸内海の小豆島からも移住してきたと言われていて、島原そうめんの基を築いたのは小豆島からの移住者ではないかとされている。そのような大転換期を経験した南目の村々の人々の入れ替わりとくらしの変化の影響は明治初期にも残っていただろう。今も南目の人たちと北目(島原から以北の地域)の人たちの気風はかなり違うと言われている。そのことも考慮に入れてスクイをはじめ他の漁についても調べようと考えている。
 また、島原周辺には、幅が100間(330m)前後もある大規模なスクイが、何か所かあったようで、その一つ有明町の大野浜のスクイでは、明治14年1月2日、鯔が立錐の余地もないほど大量に入り、スクイの持ち主の松本家は、一晩で大金持ちになったそうで、鯔大尽と言われ、スクイがあった場所の浜には「鯔供養塔」が立てられていた。その後堤防工事で移築されたが現在も近くの公園脇に祀られている。また、松本家には古文書やスクイ漁場の絵図が残っている。
 その後も同じようなことが、昭和38年春瑞穂町伊古海岸のスクイであったとスクイの持ち主から聞いた。一晩ですくいに大量の鯔が入って、長崎・諫早・太良・鹿島・佐賀・柳川などの業者に声をかけて、トラックで三日三晩掛かって鯔を運び出して、当時の金で350万円の収益になったそうだ。持ち主は、その金で立派な小屋(農業用の倉庫)を建てたと話してくれた。しかし、それ以降はそのような話は聞いていない。というのはちょうど昭和三十年代の終わりごろから、漁網の材質が綿紡績糸から化学合成繊維に移行した時代で、海中に張りっぱなしでも繊維が傷まないため、岸に魚が寄ってきにくくなったのである。沖では化学繊維の網を張り巡らせて魚やエビなどを獲ったため、乱獲気味に陥ったわけである。

 

(撮影:中尾勘悟)

 

調査結果の概要

 十数年前、長崎県立図書館の資料室で偶々目にした素晴らしい芸術的ともいえる彩色されたスクイ漁場の見取り図は、図書館の解体により古文書は歴史文化博物館に移管されていたが、「仮和」として纏めて保存されている古文書の綴りの中から捜しだして、その図面が現在の島原半島の何処にあたるかを追求して、明治初期の地図上でその場所を捜している。
 今までに十数か所のスクイの配置図は見つけ、それも併せて明治初期の地図に当てはめようとした。200か所前後あったと言われているが、雲仙市吾妻町の対岸の諫早湾の沿岸諫早市高来町湯江と小長井町長里にも、スクイ漁場があったことが、漁場見取り図に描かれているので分かる。恐らく十数か所はあっただろう。更に隣の有明海に面した太良町と鹿島市の沿岸にもあったことは、痕跡が太良町に数か所、鹿島市にも数か所残っていることで証明できる。昭和40年代から50年代にかけて太良町と鹿島市は、何回も大きい水害に見舞われ、河川改修などで出た土砂の捨て場として、鹿島市七浦と嘉瀬の浦海岸が埋め立てられたが、そこにも四か所の石アバが埋まっている。(石アバとはスクイの一種)そのようなことを文献や当時の国土地理院の地図や海図から証明することを考えているところである。
 次に江戸期に築かれたスクイ漁場を、明治三十年代に諫早市高来町の人物が買い取ったスクイは、高来町の有形民俗文化財に指定されていたが、諫早市と合併した際諫早市に移管されそのまま現在に至っている。現在はその人物の曾孫夫妻が管理しているが、漁としては成り立ってはいない。また、島原半島沿岸には、かなりはっきりとしたスクイの痕跡が何か所かあり、そのうちの一つは、島原市長浜海岸にあり、十数年前に島原市が予算を組んで修復して、現在も管理している。そのスクイの復元に取り組んだ「みんなですくいを造ろう会」が、年に一回「すくい祭り」を企画している。また、石積みが壊れた場合は、市に助成金を申請して会員に呼び掛けて修復作業も行っている。*

 

*2023年12月7日、一部修正しました。

*2024年6月22日、一部修正しました。