海域アジア・オセアニア研究
Maritime Asian and Pacific Studies
京都大学拠点

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【レポート】島原半島沿岸の石干見・スクイの分布と歴史(中尾勘悟)

【レポート】島原半島沿岸の石干見・スクイの分布と歴史(中尾勘悟)

2025.6.11

日本語研究活動


島原半島沿岸の石干見・スクイの分布と歴史

中尾勘悟(肥前環境民俗(干潟文化)写真研究所)

 

背景と目的

 2022年から着手した「島原半島と有明海の漁業についての調査」(石干見・スクイと石アバ)の最終的まとめを202410 月ごろから始めた。2022年と2023年の2年間、沿岸各地を訪ね現地(島原・吾妻・有明・有家・西有家など)の郷土史家、島原の「みんなですくいを造ろう会」の事務局、スクイの管理者、半島の各市町の図書館、長崎歴史文化博物館、大村のミライon図書館などを訪ねて資料を収集、その資料を参照しながらブックレットの執筆中である。

 

調査結果の概要

 長崎歴史文化博物館レファレンス室で「長崎県水産第五課漁業の部」の明治15年前後の漁業・漁場申請を受け付けた漁場申請書の「仮和」の文書5冊の閲覧を申請して調べたところ、北高来郡(諌早湾北岸現諌早市高来町周辺)と南高来郡(現雲仙市・島原市・南島原市)の石干見漁の申請者の名簿、その申請書に添付した彩色された漁場の見取り図が、かなり見つかりカメラで接写した。現島原市三会海岸・現雲仙市瑞穂町伊古海岸・現諌早市高来町境川河口~水の浦海岸などの名簿や絵図があった。そこで次回は明治30年前後を調べると、南島原市西有江有家川河口~小川港周辺の文書や絵図が 発見できるだろうと考えて、後日あらためて長崎歴史文化博物館レファレンスを訪ね、長崎県水産課漁業の「仮和」明治2712月に申請された文書5冊を閲覧した。すると1冊目の分厚い「仮和」文書の最初に南高来郡西有江村の有家川河口から小川港周辺の石干見・スクイの配置図と申請者の名簿も出てきた。更に閲覧すると諌早湾北岸の海岸の様子を描いた絵図もあった。

 また、20245月初め、「スクイ祭り」を覗いてからバスに飛び乗って、布津町大崎鼻を通って南島原市の西有江小川の郷土史家増田篤先生を訪ねる。しばらく江戸末から明治期にかけて盛んになった手延べそうめん製造と販路の話を聴く。その後小川港から漁港を経て鬼塚家の番頭だった荒木家のスクイ跡(現在スクイの石積みの中央部を開けて海水が出入りするようにして海水浴場に転換)に案内してもらった。このスクイ跡は地図に載っている。

 南島原市口之津・南有馬・北有馬・有家を戦国時代に治めていたのは有馬氏で、有馬直義が布教を認めたためキリスト教は島原半島南部に広まった。口之津に上陸したアルメイダ修道士が布教を始め、領民もキリスト教に帰依。天正4年(1576年)口之津港にポルトガル船が入港し、キリシタン大名だった大村派の大村純忠の兄にあたる有馬直義も本格的に南蛮貿易に乗り出す。その年直義は基督教に改宗。3年後ローマから派遮されたヴァリーニャーノ巡察師がやって来て宣教師会議が開かれ、布教活動が盛んになり、島原半島はキリスト教の一大中心地となる。

 その後日本人の聖職者を育成するためにセミナリヨとコレジョが開かれ、天正8年(1580年)有馬のセミナリヨが日野江城下に開校、22名が入校。のちにコレジョも開校。天正10年(1582年)4名 の少年が遣欧使節としてローマとヨーロッパに派遣されたが、幕府のキリスト教禁令により後に帰国。 遮欧使節団が戻るときには発明されたばかりの活版印刷機を持ち帰っている。当時島原半島南部は、日本で最もヨーロッパの文化を満喫していたことになる。フロイスは「日本史」を口之津・加津佐滞在中に書き上げている。

 その後の島原半島は「島原大変肥後迷惑」いわゆる眉山の大崩壊が17924月に起こり、土石流と津波により 1万5,600人が犠牲になった。200年後の1990年秋、普賢岳が噴火を始め。翌199163日には大規模火砕流が発生、死者43名を出す大惨事となる。その後もたびたび火砕流が起こり、家屋が埋まり耕地が流され漁場も荒れ被害甚大だった。その後の復興計画の中で、この大災害の記録を残すためと島原半島の魅力を訴えるために「島原半島ジオパーク」が建設された。

 嘉永1410月(163712月)、島原の松倉氏(重正・勝家)の圧政・重税とキリシタン弾圧に抗して「島原の乱」が起こるが、多くの信徒が天草四郎のもとに参集し原城に立て篭もった。しかし、幕府の軍勢の兵糀攻めに遭い16384月落城、3万7,000人のキリシタンは全員殺され島原半島南部はほとんど無人状態になる。松倉氏はその後島原城を建てたのだが、城壁の石のほとんどを原城から運んだと言われている。

 幕府のキリスト教禁止令が出ると、有馬氏はキリスト教を捨て、領民のキリシタンを弾圧したが、そのことが心の重荷になり、1614年幕府に国替えを願い出て日向延岡へ転封になった。そのとき家臣の中には信仰を捨てず武士の身分を捨てて農民になって島原半島に残ったものがかなりいたと言われ、彼らも原城に馳せ参じたから原城の守りは固かったのかもしれない。

 無人状態になった島原半島の南部には、近隣の藩からかなりの移住者があったようだが、瀬戸内海の小豆島からも製麺職人が移住したと言われている。幕府は天草諸島と島原半島の人口が激減した地域に、各藩に一万石あたりに農家を一戸送り込むように命じているが、どれほどの効果がったのだろう。よく言われているのが「島原半島の北目(凡そ島原と小濱を結ぶ線以北)ん人は大人しかいじょん、南目ん人はおおどか(押しが強くて積極的)」という感想である。しかし、長崎県の中では、島原半島の人の気質は明るく積極性があると思う。